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Thailand 1997.11.3

タイ王国Thailandの正式名称はPrathet Thai=Kingdom of Thailandで、過去何世紀もの間Siamの国名で知られてきた。

国旗 上から赤、白、青(2倍の幅)、白、赤の5つの水平な帯。青は王室、赤は国民を表わす。白は建国の伝説に登場する白象に由来し、仏教を意味する。

面積は513115平方kmで、日本の約1.4倍。ThailandはIndiaと中国のほぼ中間に位置する東南アジアの仏教国である。

気候 熱帯性 3〜5月暑季、6〜10月雨季、11〜2乾季(涼しい)タイの河川の汚染はひどい。悪臭が漂い、いろいろな方法を考えているようだが、予算的に実現が不可能という。

人口−6410万人(1996.4)(日本の半分弱)。 人口密度−91人/平方km。日本の約3% (1982)。

平均寿命−男子53.6、女子58.7 (1960)

首都−Bangkok 面積:1565平方km(東京都の約3/4)(5570743人(1995.12.31))

行政区分:76州。主要都市−チュンマイ11万人、コラート11万人(1982)。

住民−Thai族75%、中国人14%、Malay人3%の他Khmer、カレン、India人、Lao族など種族は多い(1982)。

言語 Thai語(公用語)・英語・中国語・Malay語など。

宗教−人口の94.1%が上座部仏教、3.9%がMuslim 、2%にChristian、Hindu教、シーク教が含まれる(1994)。Thaiは上座部仏教の国である。民衆は、ブッダが前生に積んだ善行物語を集めたジャータカのなかに、この世における善行が、後の世の生存にとって好ましい結果をもたらすという仏教の教えの確かな証拠を見る。国王に与えられた高い名誉と地位とを、その国王が前生に積んだ限りない善行の結果として了解している。

時差−グリニッジ標準時+7時間(日本標準時-2時間)

独立: 1238年 (歴史上建国された年。植民地化されたことはない)

祝日:Phumiphon国王の誕生日、12月5日 (1927年)

政体:立憲君主制

憲法: 新しい憲法は1991年11月7日是認された。1992年6月10日改正された。

選挙権: 21歳以上の国民

行政府 元首: Rama IX (King PHUMIPHON Adunyadet)(1946年6月9日より)。仏教の擁護者で、陸海空三軍の統帥者。Thai王国は,1996年の一年間を通じ,在位期間Thai史上最長のKing Phumiphonの在位50周年を祝った。

政府の長:首相および内閣は王が指名する。Gen. Chavalit Yongchaiyudh(1996.11.25-) 。BANHARN Silpa-acha(1995.7-96.11) 。CHUAN Likphai(1992.9.23-1995.7)。

立法府:国会は二院制(Rathasatha)を採る。

上院(Vuthisatha):首相が推薦し、国王によって任命された270名からなる。任期6年、2年毎に1/3ずつ交代。

下院(Saphaphoothan-Rajsadhorn):任期4年。下院は1996年9月27日解散し、11月17日、>総選挙が行われた。その結果、新希望党が第1党となった。前選挙は1992年9月13日に行われた。

Party 下院解散後、国民党反主流派と党首不出馬により解散状態となったタイ指導党の大半が新希望党に入党し、解散前の新希望党は議員57人だったが、解散後119人に倍増した。民主党は、解散後パランタム党や自由民主党からの移籍により、所属議員は86人から97人に増えた。


司法:最高裁判所サルン・デイカ、高等裁判所、県裁判所、特別裁判所。最高裁は長官の下に21名の裁判官がおかれている。これらの裁判官や下級裁判所の上級裁判官は皆首相が推薦し、国王が任命する。

税制 Thaiの税金に関する主要な法律は歳入法であり、これには法人税、個人所得税、付加価値税などが規定されている。

加盟国際機関−国連と各専門機関に加盟。関税貿易一般協定GATTには仮加盟申請中(1982)。東南Asia諸国連合ASEANの他Asia開発銀行ADBに加盟。1982年末まで国連経済社会理事会理事国。

軍事 志願制、総兵力は232500人。1980-81年度国防予算は224億パーツ=$11億2000万、日本の12.2%。94/95年度は40億ドル、GNPの2.5%。

対日関係 国交が開かれたのは1887年の日タイ修好宣言から。タイに住んでいると知らず知らずに日本人同志が集ってしまい、いつかThaiには居るけど日本に居るのと同じ状態になってしまう。近年タイ人と国際結婚international marriageされる方が増えている。 対タイ民間投資額は$7380万で、外国資本の3分の1を占め首位−80年7月末。また68年以来80年7月の第7次円借款まで2591億円を供与。貿易は日本の輸出$17億1400万−機械、金属が主、輸入は$11億6900万−天然ゴム、魚貝類が中心(1979)。


映画 東南アジアでも特に映画が盛んで、様々な傑作映画を生み出している。数年前頃まではThaiに映画を紹介したのは日本人である、と一般的に信じられていた(映画のことを「イープン(日本の意)」と呼んでいた)。見タイってか。

Thai人の頭概念 頭は聖域。Thai人にとって、頭は身体の最重要部位、聖域であり、頭にはクワン<魂>が宿っていると考えられている。クワン<魂>が、頭に鎮座ましますかぎりは、人は健康で、活力に富む。

Media Bangkok Postは英字総合紙の老舗。Nationは英字総合紙で、他のメディア関連事業に積極的。Business Dayは経済・金融情報が中心の英字紙。クルンテープ・トゥラキットはNationグループのタイ字経済紙。プーチャッカーンはマネジャー・グループのタイ字経済紙。バンコク週報はBangkokの日本人の間で知らない人はいないという。タイの政治、経済、文化、娯楽、トラベル、レストラン等の情報を毎週更新し、掲載している。アジア経済の情報も掲載している。TV局のChannel 5とChannel 7は陸軍系のTV局。

University チュラロンコン大学、タマサート大学、カセサート大学、マヒドン大学、ラムカムヘン大学、タイ商工会議所大学、バンコク大学、アサンプション大学、コンケン大学、チェンマイ大学、アジア工科大学がある。大学にはアジア各国から学生が集まっている。

入国手続き. パスポート Thaiへの入国者には、正式な、パスポートの取得が義務付けられています。

Thaiは人口5,100万人。1986年のGDP$44.7Bil(=4兆5千億円)の国です。人口は日本の半分弱、GDPは1/50です。 Thai族の原居住地は中国南部の雲南から四川南部とされています。

FileThai国ビジネスニュース http://www.thaitrade.com/fukuoka/htm/news.htm
【ニュースソース】◆BANGKOK POST(バンコクポスト)※BUSINESS DAY(ビジネスデイ)◇THE NATION(ネイション) 【Thai国経済に関するリンク】 BUSINESS NEWS HEADLINES.7 '97  

地域情報:世界の国と地域:Thai  http://www.parkcity.ne.jp/~noritake/travel/thai91.htm

FileThai王国 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/gaiko_s/apec/member/info5.html
Kingdom of Thailand. [一般事情] [経済] [一般事情]. 面 積 51万4,000 平方キロメートル 人 口 5,910万人(1994年12月末) 首 都 バンコック  

FileThai王国における研修の実施 http://www.nacsis.ac.jp/topics/thai97-j.html
[DATE: 1997/2/06] 経緯 学術情報センターでは,国際交流基金の助成による「アジア情報調査」プロジェクトを1995年後半から開始しています。

File[Thai]. 正式国名・Thai王国 (KINGDOM OF THAILAND) 首 都・Bangkok
(BANGKOK) 政治体制・立憲君主制 元 首・プーミポン・アドンヤデード国王 面 積・514,000km2 人 口・約5,900万人 人種民族・Thai族、ラオ族、e.t.c. 宗 教・仏教 http://www.sfc.keio.ac.jp/~t95809kk/asia-d/tai.html

FileThai 正式国名 Thai王国(Kingdom of Thailand) 首都 Bangkok(Bangkok)
政治体制 立憲君主制、議員内閣制 元首 プーミポン アドゥンヤデード国王 面積 51万4000km2 人口 5,858万人('93年) 人種民族 Thai族、ラオ族、他にマレー族、モン族、カレン族 http://www.sfc.wide.ad.jp/~mana/SOTSURON/GeneInfo/thai.txt

FileThai王国の地図 http://thailand.japan.co.jp/thailand-map.html (Size 1.0K)

File輸出振興局 http://www.es-net.com/thaiexport/extra.htm
Thai日貿易統計.Thai王国大阪総領事館商務部 Thai王国政府貿易センター大阪 〒541大阪市中央区本町 1-1-3 本町橋西ビル 2F TEL:06-262-4418

Thai料理

FileThaiのホームページ集 http://www.tiu.ac.jp/kuma/kaigai/thaihp.htm
福田 茜(1997.6.2) 東京の食べ方 エスニック料理店に実際行った人のコメント紹介 「96年・Thai・個人旅行」 ガイドブックに載っているところを中心にまわった貧乏旅行記

SAWADEE(Thaiの観光情報やThaiフードガイド)
FileMcDonald's Japan / 世界を食べよう 
http://www.mcdonalds.co.jp/world/index.html
現在、世界101カ国に出店しているマクドナルド。 おいしさと楽しさは世界中どこでも同じだけれど、メニューの中身や お店の雰囲気にお国柄が見えかくれ。

FileUNCHIKU of GOURMET "Thailand"  http://www.justnet.or.jp/home/carter/GRDOCTL.HTM
Thai料理ってどんなもの ?. Thai料理の味. Thaiの料理の味は辛味、酸味、甘味、塩味で構成されています。 「Thai料理なんて、辛くて食べられない!」という人もいます。

FileThai王国料理レストラン タラTARA http://www.csr-net.or.jp/hps/tara/
1996.5.15 OPEN) 1997.4.1東京都国分寺市にあるThai料理レストラン「TARA」の紹介。おすすめの一品や3種類のランチなどの価格・味の特徴が案内されている。また、パーティー料理の紹介、地図・営業案内なども掲載されている。Thai料理の初心者もOK! 爽やかな辛さです! 新しくおトクな情報も追加しました!ぜひご覧下さい。 電話でのご予約受け承ります。

Thai旅行

FileThaiへの入国手続きおよび規則Thaiへの入国者には、正式な、パスポートの取得が義務付けられている。http://www.es-net.com/tat/japanese/kisoku.htm
訪問客122万人余で、東南アジア観光の中心の一つ。収入2億ドル強−77年。
航空路−Thai・インターナショナルが大阪−Bangkokを週11便、東京−Bangkokを8便。他、日航、パンアメリカン航空、ルフトハンザ航空等。運賃はエコノミー片道13万7600円−81年7月。


歴史 Thai族の原居住地は中国南部の雲南から四川南部とされている。Thaiの初期の文明はThai中央部のMon族の文明だと言われている。Mon族はIndia亜大陸から仏教をもたらした。12世紀には、彼らは東から来たKhmer文化、北部へ移動したSmatraのSrivijaya文化、南部へ移住してきたThaiのNan Chao国(現在の中国南部の民族)と出合った。

1238年、Thai族の二人の首長がKhmer王朝(Cambodia)に支配されていたSukhothaiを制圧し、首都としてThai族最初の王朝Sukhothai朝を興した。Sukhothai朝の発展により、Khmer人はAngkohを放棄し、現在のPhnon-Penhへ王都を移した。Sukhothai朝は、メナム川上流に基礎をおいた。その後、1350年、メナム川下流のAyuthayaに王朝ができ、Sukhothai朝は1378年Ayuthayaの属国となった。Ayuthaya王国は400年以上も栄えた。

一方1296年建設されたチェン・マイを首都として、ランナー・タイ国が栄えたが1556年、Burnaの侵略により滅亡した。16世紀、18世紀にはBurna人が、Siamを侵略し、チェン・マイを占領し、Ayuthayaを破壊した。 Ayuthayaは、1767年Burna軍により陥落し、市内は徹底的に破壊された。

1767年、タークシンはBurna人を追い出し、首都を現在のバンコクのトンブリー地区に移し、王朝を興した。1782年、現在のチャクリー王朝がチャクリー将軍(Rama 1世)により創設され、首都をチャオプラヤー川の対岸Bangkokに移した。現在のプミポン国王はこの王朝の第9代であり、Rama 9世 と称す。Rama 4世は映画「王様とわたし」のmodelになった人物 である。

19世紀SiamはEuropeの強国を互いに競わせる事によって、なんとか独立を保っていた。Rama 5世チュラロンコン王(在位1868-1910)は、西欧列強のAsia進出のなかで西欧文化・技術・軍事を積極的に取り入れつつ国力の増強をはかり、Thai国の独立を保った名君とされている。 1932年、無血coup d’etatにより、Thaiは絶対王政から立憲君主制へ移行した。そして1939年SiamはThaiと国名を変更した。

19世紀Thaiの英仏関係 Thaiは1855年ころから対英仏不平等条約に苦しんでいた。この不平等条約を改訂し、独立を維持するため、ThaiはFrance、UKとの交渉にあたって、領土割譲を取り引き材料にせざるをえなかった。現在のCambodia領土の西側かなりの部分は19世紀にはThaiの領土だった 。ThaiはFranceに現在Cambodia領土となっている部分を割譲した。Franceはさらに、France人殺人事件を口実にして、ランサーン三王国(ルアンプラバン・ビエンチャン・チャンパーシェック。現在のLaos)をThaiから割譲させた。また、ThaiはMalay半島の一部をUKに割譲した。これらの犠牲をはらったものの、Thaiは独立を保った。このことは英明なRama 5世の大きな功績とされている。


日本の侵略 1945年12月の太平洋戦争開戦時に、タイはSingapore攻略にむかう日本軍の通過を認めた。タイは日本の同盟国とさせられ、米英に宣戦布告した。日本の敗戦後、宣戦布告は日本占領下で行われたもので、タイ自身の自主的な判断が不可能な状況だったと主張し、敗戦国としての取扱いを無効とするよう連合国に主張した。Franceのde Gaulle亡命内閣を例に引いたこの主張を、米国は認めたが英国は認めなかった。

大東亜戦争(太平洋戦争)は東南アジアへの西欧列強支配を打ち破ろうとするものだと、戦前の日本は喧伝したが、それが完全な偽りであることは明白である。日本によるアジア諸国の侵略、支配、搾取は英仏以上に過酷であった。それは経済支配のみならず、思想の弾圧、民族的性格の抹殺にまで及ぶものだった。「日本人はアジアの中の白人の存在に立腹するが、それは、日本人の間にある生来の外国人嫌いのためではなく、ただ日本がそこを支配するのに邪魔になるからなのである」(H. Byas=内山秀夫他訳「日本問題」法学研究73-5(2000)107)。

インドシナでは初めに、駐留日本軍への重い献納を強制した。そして日本が戦争を強行するのに必要なあらゆる資源を略奪し始めた。もみの略奪や、稲を引き抜いて麻、唐ごま、黄麻の栽培を強制することすら行い、その結果食料がなくなりひどい飢餓が引き起こされた。これにより、200万人近く、ベトナムの人口の10分の1が死亡した。直接手は下していないものの、日本軍が虐殺したと同じことである。 又、日本語の本を出版し、日本語教室を開設し、新聞発行、映画上映も強制的におこない、日本文化を植え付けようとした。


Laos Thai族とLao族は共通の祖先を持つ民族である。Thai族・Lao族の共通祖先は8世紀ころから、中国雲南地方からインドシナ半島に南下してきた。Thai民族の南下は、発展する漢民族に圧迫されたことが原因と考えられている。インドシナ半島に達したThai族・Lao族は、Sukhothai、チェンマイ、Ayuthaya、Bangkok等のThai地域に住んだ群と、ルアンプラバン、Vientiane等laos地域に住みついた群(ランサーン三王国)にわかれた。

Thai族はインドシナ半島で発展、強国となり、インドシナ半島を東進し、先住民族であるKhmer人を南方に追いやった。Khmer帝国の都Angkor Vatが1300年から1500年頃放棄されたのはThai民族が膨張しインドシナ半島東南部へ進攻したためである。一方Lao族は山岳地方に依拠する小国となった。国力の差から、Thaiは18世紀からランサーン三王国に宗主権をもつに至った(石井米雄・東南アジアを知るシリーズ タイの事典(同朋舎出版1993))。


立憲革命 チャクリ王朝の第7代王であったRama 7世(位1925-35)の時代に、専制君主制に反対する海外留学の経験を持つ若手の軍人や官吏99人が協力して、32年立憲民主主義を導入するために立ち上がった人民党カラナートの革命をいう。この革命は君主制を打倒することに成功せず、保守的な武官派と革新的な文民派の対立や、王政復古を目指す陸軍将校の反動のために揺れ動き、絶えざるcoup d’etatの繰り返しを招いた。しかし、王政のもとで、陸軍を主力とする人民党の指導者が政権を担当するパターンが次第にできあがり、タイ型の立憲君主制を作り出すことになった。

戦後、Thaiは軍部により支配され、20回以上のcoup d’etatを経験した。民主主義体制は幾度ものcoup d’etatで、短期間に終わった。1979年の民主選挙後は、軍部から経済エリートへの権力の移行により長期間の安定と繁栄を見た。

1988.7.24に行われた下院議員選挙において、Chatichaiの率いるThai国民党が87議席を確保し第一党となり、第二党の社会行動党−54議席、第三党の民主党−48議席に民衆党−21議席−と統一民主党−5議席、大衆党−5議席を加えたChatichai連立政権が成立した。政党政治といっても、Chatichai首相は軍人出身で外交官となり、次いで国民党党首になった経歴からも分かるように軍との関係が強い。

しかし1991年2月、軍事coup d’etatによりChatichai政権が倒された。そして1992年5月4日、スチンダ将軍を首相とする軍部内閣が成立した。これに反対する市民は、抗議集会、デモを連日開催し、そのデモ隊に軍・警察が発砲し、死者50人といわれる流血事件が発生した。プミポン国王が裁定に乗り出し、5月24日、スチンダ将軍は退陣した。

1992年9月13日、5党による連立政権チュアン・レークパイ政権が成立した。チュアン政権は、その優柔不断さと、土地改革scandalで崩壊し、チュアン首相は1995年、5月19日、下院を解散した。1995年、総選挙が行われ、野党が過半数を制した。1995年7月18日、7党による連立政権Banharn Silpa-archa内閣が成立した。