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Dante (1265-1321) 詩人。代表作は『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』からなる『神曲』。神に選ばれたダンテが、死後の世界の有り様を人間に伝えるという使命を受けて、あえて彼岸に渡る、という崇高なテーマである。これは恋人ベアトリーチャへのラブレターみたいものでもある。恋人と言っても、9歳の時に初めて顔を見て、18歳の時に道ですれ違っただけの関係である。言葉も交わしたこともなくて、死ぬまで想っていたとはすごいだからこそ永遠の恋人とうたわれる。結婚したベアトリーチェが25歳で死んでしまったから、なおさらダンテの想いは強まったのだろう。どんどん思い込んでいって…この位の精神的強さがなかったら『神曲』は生まれなかった。

故国フィレンツェを追われ、「私という人間の価値は、俗世間の奴らにはわかるまい。しかし神ならご存知のはずだ。私がいかに崇高な精神で生に立ち向かい、真摯に生きようとしているかを」と絶望と怒りの中で神に叫び、『神曲』を書き始めた。『地獄篇』『煉獄篇』ではダンテを陥れたり、裏切った人間達を登場させて、次々に地獄の責め苦を味あわせる。ダンテは、この『神曲』を書き上げるのに20年を費やし、それから数年で死んでしまった。全てのエネルギーを創作に費やし、燃え尽きたのだろう。

足利義満(1358-1408) 室町幕府三代将軍(在職 1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。号は鹿苑院殿。1378年、室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し、94年将軍職を義持に譲る。97年北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれた。1401年、明に入貢、貿易につとめた。

石田三成(1560-1600) 「大義を思う者は、たとえ首をはねらるる期までも 命を大切にして、何卒本意を達せんと思う」。

本能寺の変(1582) 「時は今、雨が下たる五月哉」。遺恨説と野望説の2つに大別される。光秀は一説によると土岐源氏の末裔、織田信長は平家の末裔、その信長は幕府を倒し、自ら将軍になろうともした。しかし元来将軍は源氏しかなれないその辺が許せないと言う説もある。又、秀吉の毛利攻めで秀吉がよいしょするため、最後の美味しいところを信長に譲ろうと援軍を頼んだ。その時、丹波守護であった光秀に同行させようとした。しかし光秀は秀吉のライバルであり、プライドが許せなかったという見解もある。加えて、丹波の領地からまだ治めていない毛利の領地への領地換えを言い渡されたとも言われる。そのため信長に不信感を抱いたとすめ見解もある。少し前に長年の重心佐久間が失脚しており、このままではいつ首を切られるか分からない恐怖もあった。

その折、絶好のチャンスが到来した。主要な家臣は軍を率いて外征でなかなか引き返せない、そして信長の手勢はわずかだった。しかも光秀には京都近辺に細川藤考の子忠興に娘ガラシアを嫁に行かせ、大和の筒井順慶には自分の息子を養子に出した。頭のいい武将の野望説にしては信長を殺した後の処置がいいかげんな気がする。確かに秀吉の中国大返しは光秀の予想を超えるものだっただろう。しかし仮に秀吉が来なかったとしても、四国出陣前の信孝や丹羽長秀が大阪にいたのに、秀満を近江に配置し柴田勝家に備えていたりする。そして何より問題なのは、やはり細川藤孝や筒井順慶に対するものだろう。連絡の時期が遅すぎる。


江戸時代(1603-1867) 籠かきは腰のあたりから紐をぶら下げていた。何故なら籠を担ぐときにどうしても前の人は籠の中の人に尻を向けなくてはならず、それが通常なら無礼とされるため、籠かきは尻尾にみたてた紐をつけた。 動物なら人に尻を向けても一向に構わないという考えからだった。

池田光政(1609-1682) 江戸前期の備前岡山藩主。輝政の孫。熊沢蕃山を用い、諸制度を整え、農産業を開発し、学問の興隆をはかった。1654年備前に大洪水が起こると、光政は、蕃山の補佐を得て、飢民の救済に万全を期した。これをきっかけにして地方知行制を改め、藩主権力を強化するなどの改革をし、名君と呼ばれるようになった。

近藤重蔵(1771-1829) 博覧強記の江戸の官僚。逢坂剛・重蔵始末(講談社2001)は才人・奇人であった彼の人となりを通じて当時の時代風俗を活写する。直木賞受賞作家が初めて挑む、魅力あふれる江戸捕物帖。

J.W.ゲーテ(1749-1832) 独:詩人、作家。「はじめにおこないありき」「地上のあらゆる所有の中で、自分のハートが最も貴重なものである」。「あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者は過ちを増し、後者は新しい後悔をつくる」。

アンデルセン(1805-1875) デンマーク、童話作家。芸術童話の祖、童話文学の父と言われ、誕生日は「子供の本の日」となっている。童話、詩、小説、戯曲、随筆、旅行記等、多方面に渡る才能を発揮した。「絵のない絵本」「親ゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」など、多くの傑作童話は人類の宝とさえいわれ、童話の父として今も世界中の子ども達に親しまれている。

C.ヒルティ(1833-1909) スイス:哲学者。「高慢は、常にかなりの愚かさに結びついている」(幸福論)。

Gaudi (1852-1926) 仏教信者でなくとも仏像の神秘に心引かれるように、スペインのガウディが生んだサグラダ・ファミリアSagrada Familiaも人の心を奪う。スペインのサグダラ・ファミリア(未完の教会)は未完であるが、そのスケールは人に完成と期待を与えるインパクトは凄い。創作者にとって完成した作品への愛着は大きいが、まだ見ぬ次なる作品への情熱も劣らない。サグダラ・ファミリアをこの世に誕生させたガウディ−の偉大な点は、芸術家自身の寿命では到底完成することの出来ない作品を誕生させたことにある。ガウディは「大地から自然が育つように、大地から自然に生まれる建築」と言った。未完の教会には人類の壮大な夢が託されている。

牧野富太郎(1862-1957) 植物学者。小学校を中退し独学で植物学を学ぶ、主に日本の高等植物の分類学的研究を行い、日本の植物相の解明に貢献した。多くの新種を発表し、彼が命名した数は千種にも及んでいる、また、植物知識の啓蒙活動を行い、アマチュア植物研究家の育成に尽力した。彼の死後、文化勲章が贈られている。著「日本植物志図篇」「日本植物図鑑」「植物記」等。

明治維新(1867) 尊皇攘夷と言っていた者が一転して開国和親と言うのは無節操である。明治維新、近代化といったところでその程度の低い意識に過ぎない。「破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結び付く。…幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない」(島崎藤村・夜明け前第1部下(岩波1969)265)。

上村松園(しょうえん)(1875-1949) 女性日本画家。16歳の時、内国勧業博覧会に「四季美人絵図」を出品、一等褒状を受賞。その絵が、来日中の英国皇太子の目にとまり買い上げられ、一躍有名になった。美人画家として活躍し「母子」「月雪花」「夕暮」「晩秋」など多くの名作を書き、1948年には、女性として最初の文化勲章を受章した。

芥川龍之介(1892-1927) 「人生はマッチ箱に似ている。重大に扱うのは馬鹿馬鹿しいが重大に扱わないと危険である」。

1903.8.22 新橋〜品川間で初の路面電車が本格的に運行を開始した。これを記念して8月22日はチンチン電車の日とされた。

坂口安吾(1906.10.20〜) 新潟県新潟市に生まれた。父・仁一郎は憲政本党の総務を務める衆議院議員で、県会議長などの役職を歴任した人物。安吾は13人兄弟の12番目の子で、父との繋がりは薄かったと後年エッセイに書いている。幼い頃より集団生活を嫌い、幼稚園時代から既に通園拒否をしては街中をさまよい、小学校に入学すると持ち前の腕力でガキ大将となり、同級生を無理矢理連れ出しては夜遅くまで表で遊んでいた。安吾曰く、小学校に入学する前から新聞を読むようになり、講談の連載と相撲記事は必ず目を通していたらしい。1919(T8)年に新潟中学校に入学するが、学校をさぼってはぶらぶらしていたため1922年に放校。すぐに東京の私立豊山中学校へと転校させられ、野球、水泳、陸上競技に夢中になるが相変わらず授業はさぼっていた。

1923年(T12)年、安吾17歳の時、文学好きの同級生の進めで芥川龍之介や谷崎潤一郎を読みはじめ、ようやく文学に目覚める。また、友人の名で『新青年』にボクシング小説の翻訳を発表したりした。翌年、中学校を卒業し、すぐに小学校の代用教員として働き出すが、さらに翌年には求道の厳しさに憧れ、東洋大学印度哲学科に入学する。1931(S6)年、友人らと創った同人誌『青い馬』に『風博士』を発表。牧野信一に激賞され、新進作家として注目を集る。以後、小説やエッセイで着実に文壇での地位を確立し。『日本文化私論』は、戦後、次々と発表された社会批評的エッセイのさきがけともなった作品で、その鋭い視点から現在でも通用する文明批判となっている。

戦争の翌年の1947(S21)年、『堕落論』『続堕落論』『デカダン文学論』と、次々とエッセイを発表。「生きよ堕ちよ」という極論ながらも、人間性を取り戻し人間らしく生きることを励ますこれらの作品は、終戦直後の人々に衝撃を与え、当時の若者達や後の文学者たちに多大なる影響を及ぼした。翌年になるとさらに旺盛な執筆活動に入り、名作『桜の森の満開の下』をはじめとした小説、エッセイを多数発表。私生活では、梶三千代と結婚している。以降は、純文学やエッセイのみならず、推理小説、捕物帖、歴史物とありとあらゆるジャンルの小説を書き、『不連続殺人事件』(1949年)『肝臓先生』(1950年)など、話題作を発表する。

1951年には競輪の不正事件に怒り、自転車振興会を相手に『光を覆うものなし―競輪不正事件』を発表、物議を醸した。又、税金を払うことが納得できず、何度も税務署と対決した。1952(S27)年頃から歴史物や紀行文がぐっと多くなり、『信長』(1952年)『真書太閤記』(1954年)などを発表。また、1953(S28)年には安吾47歳にして、長男の綱男が誕生している。公私ともに充実し、穏やかな日々を送っていた最中の2月17日朝、『安吾新日本風土記』の取材から一旦家に戻ってきた自宅にて脳出血のため48歳の短いながらも充実した生涯を閉じた。

安吾の親子関係 安吾の父親は地方政治家で、多くの役職についていたため年中多忙で家にあまりいなかった。元々、長男以外の子供にあまり興味関心を示さず、この父との関係は薄く、墨をすらせるために安吾を自室に呼びつける時だけが父子の唯一の接触の時間だったと、エッセイ『石の思い』で回想している。母親は後妻だったため、ほとんど年の変わらない先妻の娘達との間に激しい確執があり、さらに持病の膀胱結石の痛みが加わり、年中ヒステリイを起こしていた。腕白だった安吾は常に母親ににらまれており、「母は私を憎み、私も母を憎んでいた」。

このように、安吾は両親の愛情にあまり恵まれなかった幼少期を過ごした。そんな自分が子供を愛せるはずはないと、安吾は子供を持つことを拒否していたが、晩年、一人息子の綱男が生まれると大変な子煩悩になり、まさに目の中に入れても痛くない可愛がりようだった。『安吾新日本風土記』の取材旅行のため家を空けることが多かった安吾は、旅行先から必ず電話をかけ、まだろくろく話すことができない赤ちゃんの綱男さんと片言の言葉を交わしては喜んでいた。それまでの安吾は大変な電話嫌いで絶対に電話に出ず、自分宛ての電話でも妻に対応させていたという。

又、安吾が綱男さんの将来のために貯金しようと言い出し、三千代夫人を驚かせた。安吾が亡くなった朝も、まだ眠っている綱男さんが寒くないようにと隣りの部屋にストーブをつけに行き、脳溢血で倒れてしまった。安吾の作品はいつも孤独を主題としたが、人生の最後の最後に綱男さんという心から安らげる存在ができ、幸せな最期を迎えることができただろうと思う。児童虐待などの事件が多い昨今、「子供を愛せるはずはない」と思った安吾が自分の子供を溺愛できたように、子供の全てを受け入れられる親が増えればと願わずにはいられません。


カラヤン(1908-89) オーストリア、指揮者。貴族であり医者でもある父エルンスト、母マルタ・コスマチの次男としてザルツブルグに生まれた。1955年に、ベルリン・フィル首席指揮者・芸術監督に就任、翌56年、その終身芸術監督になる。これに続き、西欧の音楽界の枢要ポストを一手に収めたことから、「帝王カラヤン」と呼ばれた。

アウンサン将軍(1915-47) ミャンマー民主化運動のアウンサン=スーチーの父、アウンサンは、当時、イギリスに対する独立運動を展開していた。侵略性を隠しつつこれを支援したのが日本軍である。やがて日本が「ビルマ独立」を認め、アウンサンは国防大臣に就任する。しかし、日本の真意(イギリスなど連合国と戦うためにアジア諸民族の独立運動を利用したこと)を知り、また日本軍による人民の生活苦を背景に、アウンサンは1944年8月から、抗日統一戦線組織(反ファシスト人民自由連盟)を樹立する。「われわれの独立は紙の上のものであって、現実にこれを享受している種族はいない。…われわれと、われわれの目標の間には長くて厳しい道がある」と演説した。以後、イギリスと提携して日本軍を駆逐し、イギリスとの協定を重ねた末、1948年に独立した。独立に先立って首相格のアウンサンは他の閣僚らとともに暗殺されたが、「ビルマ独立(建国)の父」と今もたたえられている。わずか32年の生涯だった。 

1911.9.20 山田猪三郎の開発した飛行船が、東京上空を1時間にわたり初飛行した事を記念した。これを記念して政府は1940年に9月20日を空の日と制定した。また、9月20日〜30日までを空の旬間として各地の飛行場で記念行事も行われている。成田空港では「ジャンボ機との綱引き大会」というイベントを行ったこともある。

ツルネン・マルティ(1940-) フィンランド北カレリア生まれ。1979年、日本国に帰化。1992年、神奈川県湯河原町議に当選。その後4度に渡り衆参両院選挙に出馬するものの、全て次点で落選。英語塾を営なむ傍ら「源氏物語」等、日本の古典書をフィンランド語に翻訳。日本文化をフィンランドへ紹介。経済と環境の両立を目指し、様々な提言を行う。地道な政治活動は、地元民の共感を呼び、国政選挙で最大50万票の得票を得るも未だに国会に議席を得るには至らず。湯河原町在住。「湯河原で天寿を全うしたい」と語る。著書「日本人になりたい」(祥伝社)他多数。

御下問奉答(1941.9.5) ヒロヒト「絶対に勝てるか」。杉山参謀総長「絶対とは申し兼ねます。しかし勝てる算のあることだけは申しあげます。必ず勝つとは申しあげかねます」。それにもかかわらずヒロヒトは開戦を決断するのである。

御前会議(1941.9.6) 天皇臨席のもとに開催される会議。大日本帝国憲法にこの規定は実はなく、日清戦争直前から山県有朋や伊藤博文が開催した元老会議の権威を高めるために明治天皇が臨席したのがはじまり。しかし元老らが政治から一線を退いた明治末期から大正、昭和初期にかけて、御前会議が開催された例はない。1937年日中戦争開始以降、日独伊三国軍事同盟などの重用事項を審議するため、政府と陸海軍の大本営との連絡調整会議として大本営政府連絡会議が新たに開催される(1944年東条内閣崩壊まで195回開催)。出席者は、通常、政府側が首相・蔵相・外相・内相(内務大臣)・陸相・海相・企画院総裁、大本営側が陸軍参謀総長・海軍軍令部総長。議題によっては枢密院議長・参謀次長・軍令部次長なども出席した。これに天皇が臨席した会議が御前会議。日中戦争から敗戦まで、重要な国政に関する最高機関として、15回開催された。今回の御前会議では、アメリカ(イギリス・オランダ)との戦争を事実上方向づけた「帝国国策遂行要領」が決定された。それには「帝国は自存自衛を全うするため対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と定められた。

東条英機内閣(1941.10.18) 交渉継続か戦争かをめぐって近衛首相と東条英機陸軍大臣57歳との間で対立がおき、第3次近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立する。この内閣は、原敬内閣(3年2か月)いらい、しばらくみられなかった長さの政権(2年9か月)になる。東条首相はこの期間中に外務、内務、陸軍、文部、商工、軍需各大臣を兼任することになるが、主な大臣には、外務に東郷茂徳(外務官僚出身)、大蔵に賀屋興宣(かやおきのり、大蔵官僚出身、貴族院議員、北支那開発株式会社総裁)、農商に内田信也(のぶや、神戸内田汽船を創業した「船成金」、代議士、宮城県知事)、商工に岸信介(のぶすけ、いわゆる「革新」派商工官僚、満州国産業部次長、商工次官。商工相就任時45歳)

近衛は以下のように回想する。「自分が総理大臣として陛下に、今日、戦争の不利なことを申しあげると、それに賛成されていたのに、明くる日御前に出ると、「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することもないよ。」と仰せられて、少し戦争の方へ寄っていかれる。…統帥について何ら権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない」(富田健治・敗戦日本の内側)。1年前には新体制運動の中心人物として脚光を浴びた公爵・近衛文麿は、戦争指導者たちが開戦論で占められていくなか、ひとり孤独感を抱きつつ、しばらくの間、歴史の舞台から退くことになる。


南方占領地行政実施要領(大本営政府連絡会議1941.11.20) 「第1 方針
占領地に対してはさしあたり軍政を実施し、治安の回復、重要国防資源の急速獲得および作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
6.通貨はつとめて従来の現地通過を活用せしむるを原則として、やむをえざる場合にありては外資表示軍票を使用す。
7.国防資源取得と占領軍の現地自活のため民生に及ぼさざるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ宣撫上の要求は右目的に反せざる限度にとどまるものとす。
8.…原住土民に対しては皇軍に対する信倚観念を助長せしむるごとく指導しその独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとする」。
6によって乱発された軍票は各地で猛烈なインフレを引き起こし、現地住民を苦しめた。7は、占領軍(日本軍)に必要な資源を獲得するためには現地住民に重圧を与えることも構わないとする。8は、「現住土民」に日本軍を「信倚観念を助長」つまり信じ頼らせつつ、独立運動の誘発を避けることが方針として記されている。 

真珠湾攻撃(1941.12.8) 日本は卑劣にもハワイ真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃し、ここに15年戦争の後半戦であるアジア太平洋戦争が始まる。日本からの交渉打ち切りが真珠湾攻撃の1時間後という、外交的手続きをふまずに攻撃が行われた。ルーズベルト大統領特別教書「私たちは、法律と、秩序と、正義との原則を転覆し、人類に対して放縦専断な力による冷酷な支配制度を課さんとする前古未曾有の強暴なる努力に対し、これらの原則を防衛するために戦いつつある」。

宣戦の詔書(1941.12.8) 天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆(なんじゆうしゅう)に示す。朕(ちん)ここに米国および英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶はおのおのその本分をつくし、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ。

…米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋制覇の非望を逞うせんとす。あまつさえ与国(ここではオランダをさす)を誘い、帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断行を敢えてし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。…かくの如くにして推移せんか、東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立また正に危殆に瀕せり。事すでにここにいたる。帝国は今や自存自衛のため 蹶然(けつぜん)起って一切の障礙(しょうがい)を破砕するのほかなきなり。

「「馬鹿野郎だ!」かんで吐き出すようにぼくが叫んだ。戦争が不利だという見とおしをつけたからではなく、当分この戦争がつづくといううっとうしさからであった。どうにも持ってゆきどころがないので、ぼくは蒲団をかぶってねてしまった」(金子光晴「詩人」)。


シンガポール華僑虐殺事件(1942.2-) 「シンガポールやイギリス領マラヤ各地で日本軍がおこなった中国系住民への虐待・虐殺行為。1942年2月のシンガポール占領後、日本軍第25軍は、援蒋行為(蒋介石の国民党への援助)阻止と抗日運動の取りしまりのために、シンガポールで「抗日分子」とみなされた華僑男子を集団拘束し、その多くを海岸や沼地に連行して殺害した。その犠牲者数は4-5万人といわれている。2月から4月にかけて第25軍は第5師団を中心に作戦地をマレー半島の占領地域に拡大、ネグリセンビラン州パリッティンギ村など各地で「敵性分子」の掃討作戦を展開、多数の華僑系住民を殺害した」(岩波書店「岩波日本史辞典」)。

ミッドウェイ海戦(1942.6.5) 日本軍は大敗を喫し(空母4隻・ほか1隻・航空機285機を失う)、以後連敗を重ねていくことになる。当時の新聞(朝日新聞1942.6.11付)は、「ミッドウェー沖に大海戦。米空母2隻撃沈。わが2空母、1巡洋艦に損害 ”刺し違え戦法”成功。わが損害は軽微。太平洋の戦局この一戦に決す。敵空母集団殲滅」と報道した。国民には「勝利」と伝えられたため、兵士たちの死は遺族にもずいぶん遅れて知らされた。正確に伝えると、国民が敗北に気づき、反戦・厭戦、あるいは、天皇や内閣に対する不満の声が強くなって暴動や革命が起こることを戦争指導者たちはおそれた。

インドネシアの抗日独立運動(1942.11.10) 「私たちは、日本が西洋の抑圧からアジア全土の民衆を解放するとのかけ声とともにインドネシアへやってきたことをすでに知っている。しかしその到来後数か月のうちに彼らは仮面を脱ぎ捨て、アジアの国々を占領して民衆を公然と抑圧した。同じことはインドネシアでもおこった。その圧制のためにあちこちで日本に対する反乱が発生した。日本がアチエー(スマトラ島北部)を征服して間もなく、トゥンク=アブドゥル=ジャリルという若いウラマ(イスラムの学者・宗教指導者)によって指導された反乱が勃発した。…1942年11月10日に日本軍はチョット=プリェンを攻撃した。そのとき、人びとは祈祷の最中だった。剣や短剣で武装した民衆は日本軍を撃退し、日本軍は退却せざるをえなかった。2度目の攻撃でも日本軍は撃退された。3度目の攻撃で日本軍は成功し、その後モスクを焼き払った。トゥンク=アブドゥル=ジャリルは逃亡することができたが、最後には祈祷しているところを射殺された。この反乱で日本側は90人が犠牲となり、民衆の側では3000人前後が戦死した」(『インドネシア国民史』第3巻)。

御前会議決定「大東亜戦略指導大綱」(1943.5.31) 日本を盟主とする大東亜共栄圏の成果を誇示するため、大東亜会議をよびかけた。しかし同年5-6月に開かれた会議に出席したのは、『中華民国』・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(オブザーバー参加)という日本の傀儡的親日政権の代表ばかりであった。大東亜共栄圏構想はかつて孫文らが主張したような被抑圧民族を欧米帝国主義から解放するためのものではなく、日本が欧米列強の地位にとってかわり、古い不平等を新しい不平等にかえようとしたにすぎなかった。

日本の無条件降伏(1945.8.15) アジア太平洋戦争の人的被害。中国…死者:軍人・ゲリラ321万人、一般市民1000万人以上、計1321万人。朝鮮…戦死・不明15万人、強制連行70万人、戦犯148人うち23人処刑(B・C級戦犯)。ベトナム…1944−45年200万人餓死、革命家など2000人虐殺、全体で人口の7分の1の割合で死亡。インドネシア・・・餓死者10万人(正確な数字は不明)。フィリピン・・・死者:軍人2万人、ゲリラ2万9621人、計4万9621人。シンガポール・・・一般市民約8万人死亡。ビルマ・・・数万人が死亡(正確な数字は不明)。セイロン・・・日本軍機が精神病院に投弾。ニュージーランド・・・死者:軍人11625人。東アジア地域総計1298万人。他にラオス、カンボジア、インド、オーストラリアにも日本軍の見境ない攻撃によって多くの死者が出た。日本(外地、沖縄を含まず)・・・死者:軍人・軍属155万5308人、市民29万9485人、死者数計185万4793人、負傷不明67万8232人。

「フィリピンでも占領中に約9万人(極東国際軍事裁判所速記録)もの一般住民を虐殺した。そして、軍票(通貨の代用として発行)などを乱発して物資を強制的に徴発した結果、悪性インフレをひきおこし、また食糧の収奪は、1944年から45年のベトナムのように、自然災害重なって大飢饉をひきおこし、ベトナムでは約200万人もの餓死者をだしたという。さらに日本軍は、タイとビルマをむすぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に、連合国軍の捕虜6万1000人や、東南アジア各地から募集または強制連行した現地労働者約7万人を使役し、きわめて劣悪な労働条件と虐待によって、捕虜1万2000人と現地労働者3万3000人を死亡させた。しかし、いずれの植民地・占領地でも、根強い抗日運動をおさえることはできなかった」(江坂輝弥・竹内理三ほか『高等学校新日本史B』桐原書店)。


世界都市計画の日(1949.11.8) アルゼンチンの都市計画学者・パオレラ教授が提唱。日本では都市計画協会が1965年から実施。11月8日は他に、レントゲンの日、いい歯の日、刃物の日、ボイラーデー、八ヶ岳の日。マーガレット・ミッチェル(『風と共に去りぬ』1949年8月16日没)、アラン・ドロン、亀井久興(衆議院議員(自民党))、ダイアナ・キングの誕生日。
また逢う日まで(1950) 日本で公開され当時大ヒットした映画。戦争によって恋を引き裂かれた恋人達が別れる際に、雪積もる窓ガラス越しにキスをするという名シーンがある。

気象庁(1956) 気象庁は1875(M8)年に東京気象台(内務省地理寮量地課)として発足し、その後、明治20年に中央気象台と改称、明治28年文部省の附属期間に移管された。昭和14年にはそれまで多数あった県に属していた官署を国の所属とし、昭和18年には運輸通信省に移管。昭和31年に気象庁として外局に昇格し今日に至っている。

気象庁本庁は 東京都千代田区にあり、全国の気象業務を統括。札幌,仙台、東京、大阪、福岡に管区気象台、那覇に沖縄気象台を置き、地域の広域的な気象や地震などの観測、予報や情報提供を行う。各都道府県(北海道と沖縄県は1〜3支所毎)に地方気象台を置き、県内の気象観測、予報、注意報・警報の発表を行う。観測網を充実させるため、所要の地に観測所を置き、気象観測などを行う。

航空機の安全のため、空港には航空地方気象台、航空測候所、空港出張所を置き空港の気象観測、航空機への情報提供を行っている。海上、海洋の気象観測を行う海洋気象台を函館、神戸、長崎、舞鶴に置いている。上記の官署の他、気象庁には施設等機関として気象研究所、気象衛星センター、高層気象台、地磁気観測所、気象大学校がある。平成9年の定員は、全国で6,206人。気象庁本庁は1,149人、管区気象台、地方気象台等で4471人、施設等機関586人。


ARPANET(1969-71) インターネットの前身。この時期には12のサイトが開設される。1974年には62、1981年には200サイトに増加した。当時はテキストのみによるメールの交換と掲示板くらいで、今日のマルチメディアデータの利用状況とは著しく違っていた。今日的な狭い意味でのインターネットの始まりは、技術の発展によりパソコンで写真画像が処理できるようになってからであり(CPUスピードとメモリ容量)、80年代後半より以前ということはない。

東芝JW-10(1978.9.26) 日本初のワープロが発表され、翌年2月から出荷された。価格:630万円。記憶装置:10MB-HardDisk, 8inch-FloppyDisk。書体:独自開発。コードは発表されたばかりのJISに準拠。表示装置:中央無線製ラスター式CRT 24dotの漢字を41桁×14行表示。プリンタ:ワイヤドット式 24dot/文字 (独自開発)。CPU:ミニコンTOSBAC40CのCPU相当をLSI化したもの。1982年、富士通の日本語ワープロMy-OASYS登場。初めて100万円を切る。

レーザーディスク(1981.10.8) パイオニアが日本で初めてレーザーディスクを発売。それを記念して10/8はレーザーディスクの日とした。最近はレーザーディスクもDVDに押され気味。レーザーディスクは重い、場所取る、もう見ない、ということで引越しの度に処分するか悩む所有者も多い。一方で根強いレーザーディスクファンも少なくなく、オールドアニメファンには必需品という。当時の作品が今更DVD化する可能性が低いからである。ビデオは30年もの歳月をかけて、インチ、4/3テープからベータ、VHS、S-VHS、W-VHS、D-VHSと進化を遂げてきた。その過程でVHSも格段の画質向上があった。MDも初期と今とでは音質は大違い。

WILLIAM GIBSON, NEUROMANCER (1984). 「サイバースペース」の語源となったサイバーパンクSF小説。

電電公社民営化(1985.4.1) 行政改革の本来的目的は、国民・市民への奉仕者である官僚に公務員法に記述された「国民全体への奉仕者」という本務を自覚させ、官僚制度そのものを見直しそのサービスの向上と効率化を実現、彼らの意識と行動を民衆・国民本位に転換することである。しかし中曽根政権は国鉄・専売公社・電電公社を民営化して、政権政党に都合の悪い労組を解体し、利権の割譲を強行するために行革のスローガンを悪用した。その構想の実現のための最初のターゲットになったのが「労働の社会的価値と役割」についての建設的展望を描けないでいた旧国鉄・国労と、事実上その存在価値のなくなった塩とたばこの専売公社(制度)であった。これら二公社の非効率性を前面に出し世論を味方につけながら、彼らは黒字の電電公社とその職員組合である全電通労組の弱体化とその事業からの利権割譲をもとめて民営化と分離・分割路線を押し進めたのである。

電電公社民営化は郵政族が儲けるため、官僚(主として郵政官僚)が天下りをする場所を作るため、国民の財産である市内電話網を私物化して持ち逃げするため、公務員の制度の縛りを避けて無茶な給料を取るためになされた。公社なので入札していたのを、株式会社になったのをよいことに、全部随意契約にし、NTT関連会社だけが潤うようにしている。現在問題になっている特殊法人より悪い。これが日本の通信政策を遅らせ、景気を悪くした。

このように郵政族が問題なのだが、郵政族という呼び名に隠れて責任を逃れてのうのうとしている奴がいるというのは、今後のために良くない。やはり悪いことはできないなと思わせるくらいの見せしめは必要だろう。さもないとまだまだ通信事業にまつわる茶番は続いてしまう。小渕首相が亡くなったのも、NTTドコモ株疑惑が広がらないようにということだろう。

通信産業は設備産業だからどうしてもある程度の負債を抱えてしまいがちだが、その負債をどのように減らしていくのかに対する明確な回答がないまま投資しなければならないのは不毛である。NTTが民営化するまでの長距離電話料金の高さはすごかった。当時、市内電話の赤字を長距離料金でカバーするという前提の下に料金体系が組まれていた。競争が激しくなる前はこの方法が通用していた。これは長距離電話をかけるより、市内電話の方が頻度が高いから、市内電話を採算割れするほど値下げしておけば一般消費者にとってはメリットが多いという通信政策によるものとする見解もある。新電電が参入し、数年前まで毎年値下げするのが恒例行事になっていた。NTTのサービスや料金設定には客のためとういうより、単純に政治的、経営戦略的にやっているという印象を強く受けるところが腹立たしい。


DANIEL RADCLIFFE(1989.7.31-) イギリス人。1999年、BBC製作の英国の小説家チャールズ・ディケンズ(1812-70)の「デイビッド・コパーフィールド」(1850)を原作にしたTV映画で、若き時代のデイビッド・コパーフィールドを演じた。 ジョン・ブーアマン監督の「The Tailor of Panama」(2000)にも出演する。映画版「ハリー・ポッター」主演。

日本音楽マネージャー協会(1990.8.19) 8月19日をクラシック音楽の日と制定した。たまにはクラシック音楽を聴くのもよい。8月19日は俳句の日、バイクの日でもある。バイクの日は8/19をバイクと読むことや、夏休み中に少年のバイクの事故が最も多くおこることから、事故防止を目的として制定された日。この日は総務庁が関係機関と協力して、広報活動や討論会、シンポジウムなどを開催する。

1991.10.3 社団法人日本アルパインガイド協会が自然に触れる機会を増やし、美しき日本の山々を守っていこうという目的から10月3日を「登山の日」(と10ざん3)と制定した。

BRUCE STERLING, THE HACKER CRACKDOWN (1992). 通俗的な意味での「ハッカー」とは異なり、真のハッカーというのは倫理を重んじるコンピュータの巨匠である。

サンテラ・コーポレーション(1992) カリフォルニア州サン・マテオにシグニチュアー・リゾート・インクとして設立。最初にオープンしたリゾートはフロリダ州オーランドのサイプレスポイント。その後、複数のホテル運営会社などを傘下に収め、着実にスケールを拡大。 現在、欧米各地10カ国90カ所のリゾート施設を保有し、30万世帯のオーナーファミリーを持つ、世界最大級のリゾート会社に成長した。サンテラ・コーポレーションは1992年、

石炭の日(1992.9.5) 資源エネルギー庁が9月5日を石炭の日(クリーンコール・デー)と制定した。9/5を「クリーンコール」と読ませる。石炭もクリーンエネルギーとなっていることをアピールする事が制定の目的。現在でも日本では年間1億トンの石炭が使われている。

毛利衛(1992.9.12) 日本人初の宇宙飛行士となった毛利衛が、エンデバーでケネディ宇宙センターから飛び立った。後にこれを記念して9月12日を一般公募で宇宙の日と制定した。

セラシーン(1994) イタリアの医学博士ジャン・フランコ・メリッツィが、天然ハーブを中心とした成分を独自の方法でブレンドした、抗セルライトのためのハーブサプリメント。セルライトとは女性のお尻や太股などに起こりやすく、肌が凸凹したオレンジの皮のようになる現象がセルライト。年齢、体重、体調を問わず、世界各国の女性共通の悩みであり、ダイエットや運動では除去することができない。セルライトは、主に第二次成長期以降の女性に起こりやすく、体型を問わずほとんどの女性に見られる現象である。


1998.9.23 日本テニス振興協議会がテニス愛好者の創出と育成を目的として、9月23日をテニスの日と制定した。そのためこの日には全国各地でテニス大会等のイベントも行われる。

1999.9.14 福岡中央署は福岡−鹿児島間の高速バスの偽造回数券を使って乗車しようとした偽造有価証券行使と詐欺未遂の現行犯として、鹿児島市新照院町、九州電力鹿児島支店次長A容疑者(50)を13日に逮捕した、と発表した。調べではA容疑者は13日午前9時ごろ、福岡市中央区天神の西鉄天神バスセンターで、偽造した福岡−鹿児島間の回数券で高速バスに乗車しようとした疑い。これまで同路線で3、4回、紙質が違う偽造回数券が見つかり、A容疑者とは別の名前で予約が入っていた。13日にもこの名前で予約が入っていたため、西鉄から通報を受けた同署員が張り込んででいた。福岡−鹿児島間の高速バス回数券は4枚つづりで1万8千円(3ヶ月間有効)。

A容疑者は7月から鹿児島市に単身赴任しており「(福岡への)帰省費用を浮かせたかった」と供述。「会社のコピー機を使って自分で偽造した」とも話しており、同署は○江容疑者が日常的に回数券を偽造、乗車していたとみている(「九電支店次長を逮捕 偽造バス回数券を使用 福岡−鹿児島」西日本新聞夕刊1999.9.14)。サミットの時の外務キャリア官僚によるタクシー料金水増し請求もそうだが、基本的に日本のエリートのやることはこずるくて、セコイ。

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