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複雑系 複雑系とは、複雑な(不確定な)環境に晒されつつ、その複雑性(不確定性)を縮減することを通して、自己自身を複雑にする系(システム)である。システムが選択するのとは他のように選択する可能性が、システムの環境である。だから、私にとって他者は環境であり、他者にとって私は環境の一部である。社会システムにおいては、私の選択は、他者の選択に依存し、他者の選択は私を含めたその他者の他者の選択に依存している。

私が環境に対応しようと選択を変更すると、それは他者にとっての環境の変化を意味するので、他者も環境の変化に対応しようと選択を変更する。すると私にとっては、それは新たな環境の変化をもたらすので、さらに選択を変更する必要が出てくる。意識システムの選択が相互に依存する社会システムは、このように、複雑性の縮減がシステムの複雑性を増大させるという意味で、複雑系である。

河本英夫氏が、「第三世代システム論」と称して宣伝しているオートポイエーシスも複雑系の一種である。ロジスティック写像がそうであるように、自己自身を変数とする関数は、過去の自己が現在の自己の環境となる。この場合も、環境に対応することが環境の新たな変化をもたらすので、変数と関数が同一にならない限り、システムは無際限にカオス的な振る舞いを続けることになる。オートポイエーシスは、他者ではなくて、自己自身を環境として準拠する点で特殊であるが、自己言及のパラドックスは、古代ギリシャから論じられている陳腐なテーマであり、「第三世代」と形容するほど新しいシステム論ではない。

もっとも、私は、システム論の歴史に不連続なパラダイム・チェンジがなかったと考えているわけではない。近代的な意味でのシステム論の歴史は、第二次世界大戦後のサイバネティックスから始まるのだが、その性格は、1970年代を境に大きく変化する。70年代以前のシステム論は、環境に生じた攪乱要因に対して、ネガティブ・フィードバックを通じて、自己を維持する安定化のメカニズムが研究された。ところが、70年代になると、カタストロフィー理論が流行し、イリア・プリゴジンの散逸構造論がノーベル化学賞を受賞するなど、平衡系よりも非平衡系が注目を浴びるようになり、それが現在の複雑系ブームにまで続いている。

では、なぜ70年代なのか。実は、社会システム自体が70年代以降、複雑系化したからである。それ以前の独占資本主義体制と共産主義体制は、現在のシステムと比べれば、単純系であった。単純系とは、トップの意志で、全体が一糸乱れず動く確定的システムである。計画経済を推進する東側経済はもとより、大きな政府が総需要管理を行い、巨大資本がコングロマリットを形成して、規格製品の大量生産を行っていた西側経済も単純系であった。

ところが1973年に、それこそカタストロフィー的に、固定為替相場制が崩壊し、石油危機によるスタグフレーションが始まると、世界経済は、独立的な国民経済の集合からグローバルなネットワーク経済へと相転移していく。政府はケインズ政策で国民経済をコントロールすることができなくなり、企業は垂直統合型の組織を水平分業型の組織へとリストラクチャリングしなければならなくなる。

多くの科学者は、自分の研究が知識社会学的に相対化されることを好まない。「いつの時代も自然と社会は複雑系だった。自分の研究が、自分が生きている時代に限定されるのは不本意だ」と複雑系研究者は言うであろう。だが、現在の科学者が自然や社会に対して機械論的決定論を信奉する100年前の科学者とは異なる見方をしているように、100年後の科学者は自然や社会に対して現代の複雑系研究者とは異なった見方をしている可能性はきわめて高い。かつての決定論的研究と同様に、複雑系研究も所詮は時代の産物なのである。

複雑系の時代を迎えることが、幸か不幸かは判断の分かれるところである。秩序と予測可能性が失われた不安な時代と否定的に捉えることもできるし、常に新しい秩序が創発することを期待できるエキサイティングな時代と肯定的に捉えることもできる。ともあれ、私たちは、与えられた時代を生きていかなければならない。


無限小 切り刻む作業を無限に繰り返さなきゃならない。無限回切り刻む作業は有限時間内に終わらない。だから矛盾である。その矛盾を解決する方法として無限小という概念がある。アキレスと亀の問題がパラドックスに陥ることがゼノンによって示された。しかしそれは無限小(微積)の概念を用いるとパラドックスに成らないことがわかっている。

Sensemaking 私達の身の回りでいま何が起こっているのかを感じ取ること。何が起こっているのかの認識プロセスであると考えてもよいが、単に外部の情報を受動的に処理するというのではなく、私達が積極的に環境や自分自身に関わっていく能動的なプロセスを通じて、一体何が起こっているのかという感覚を能動的に形成していくプロセスである。

化石 旧約聖書の「ノアの大洪水」が実在したことの証拠として化石が使われていた。イタリアの僧侶リストロ・ダレッツォは山で発見された貝殻の化石がノアの洪水で運ばれたものと主張したが、レオナルド・ダ・ビィンチ等によって否定されていった。

大学 大学は半年を基本的な単位としたほうがよいのではないか。毎週1時間を1年で4単位よりも、夏休み前に2単位あげる。そして秋卒業をもっと増やす。これは企業の春一括採用がある限り崩れないだろうが。海外の大学では教授の気分や都合によって単位をあげる授業期間が自由に決められるという。1年とか半年とか3ヶ月とか2ヶ月とか。研究内容によって時間が違うのは自然である。それからアメリカは卒業期限(日本なら8年)がない。「学校は学問の場」というのが確立してるからいちいち就職活動の面倒をみない。「卒業したら後は勝手にしなさい、一応出来うる限りは教えたから後はあなた自身の問題です」というのが教育方針らしい。手取り足取り、親を呼びつけたり後援会まで作る日本の大学は幼稚である。

大学院 日本の大学院で講義する資格を得るのは大変なことである。学術論文の質も求められる。修士課程でM合、博士後期課程でD合の資格審査(文部科学省)を通らなければ教鞭をとることは出来ない。この資格審査を通すことが大変であるし、維持するのも大変である。のんびりするには、大学院を持たない大学で学部生を相手に教鞭をとればいい。

基本的に学部と大学院は違う。大学院はあくまで研究する場所だから、それを自身の幻想に使ったり、かさにきるようなことはその人の人間性というか、結局自分ときちんと向き合えているかどうかが試されていると思う。学歴が自分の満足する水準ではないと思うならば、それを誤魔化すのではなく、実務家なら実務と実績評価で、研究なら研究業績と評価で頑張ればいい。

ビジネススクール 最近、続々と日本版ビジネススクールが設立されているが、教育方法と教育内容についての明確な共通認識のないスクールは教育を教授個人に任せており、これまでの研究者養成のままの教育が行われている恐れ十分。有名大学だからいいとは限らない。


学歴 新しい時代には新しい考え方や価値観が必要である。従来の学歴偏重システムは右肩上がりに呼応して大手を振っていたが、現在は使えないことは火を見るより明らかである。優秀といわれる大学に入れた人が幸せな気持ちになってもいいかもしれないが、そうでない人のことを取り返しのつかない大失敗をしたかのように言う資格はない。偏狭な価値観(ここでは偏差値、学歴至上主義)に過剰適応するのは悲しい日本の風土である。これではベンチャー企業が育つわけがない。

この種の改革は誰かがやるものでも、やってくれることを待つのではなく、一人一人の心の中、認識の中でどんどん行わねばならなくなり、また行える時代が現在と思う。 学歴至上主義にとらわれることは自分の成長という側面からは大変な停滞を自分で作り出しているといってもいいでしょう。 それは人がとやかく言う問題ではなく、難しいが自分が気づいて認識を変え行くしかないと思う。学歴等の体裁はいくらでも取り繕えても、自分で自分自身を別のものに置きかえたり取り替えたりはできない。


ノート ノートを取ることの利点は、考えを整理できる。読み返す手間がかからない。図解をいれれば理解を深められる。ノートをアイデアツリーで作るというのはなかなかいい。欠点は時間がかかる、手が汚れる、疲れる、字が汚い、紙が劣化する、検索できない。多少の情報の追加は出来るが、何十年も追加情報を蓄積できない。パソコンをノートにする利点は関連知識、類似知識の一覧表を簡単に作れる。知識の修正、追加が楽。知識を集約できる。字が読みやすい。いくらでも印刷できる。手が汚れない。紙のノートを作るよりも退屈しにくい。長い文をスキャナで取り込むことも出来る。音声入力ソフトをつかえば、テープを何度も聞かなくていい。辞書不要。一生、知識のストックとして使える。
教師 生徒は教育者、つまり教師に信頼を寄せることはまずない。自分とは異なる人間であることが明確だからである。教師は自分と全く違う考えをもった人である。どんなに真剣に指導しようともそれは教師という職業のもと、その仕事に生きがいを感じている人間、お金をもらう仕事である以上、信頼を寄せることはない。上辺だけの信頼なら簡単に寄せられるが。生徒は教師を利用しながら生活する。生徒にとって自分に評価を下す人間である。適当に仲良くして、色目も使って最高評価をもらう。教師の前ではその教師の好きな自分を作る。適度に悪いところを見せて改めたふりをしてまた最高評価をいただく。

教師に求めるのは知識をもらうこと。実際使えるような知識である。使えない情報はいらない。キレイ事、教師の理想、夢は個人が考えることであって人に強要されることではない。教師は事実と自分の思想のない一般的な賛否を語ればいい。どちらが正しいと思うか、新たな考えを求めるかは、個人的なことで、個人が考えればすむことである。マインドコントロールのような授業は要らない。自分の考えを押し付けるような方法は止めていただきたい。そうでなければディスカッションの意味はない。


奉仕活動義務化反対 教育は生徒本人の利益のために行われるべきである。数学や体育の必修は強制だが、その前提を満たす限りにおいて正当化される(それでも本人の選択肢を広げる方が好ましいと思う)。この点で他人又は社会全体の利益のために行われる奉仕活動とは決定的に異なる。生徒は中高年が豊かな老後を送れるようにするために生きているのではない。
銃刀愛好者 フロイト学説を引用するするまでもなく自己の肉体的欠点(異性に対して魅力がない)、精神的欠陥(異性、社会に対して自信がない)、社会的不満足(仕事、学歴に対する劣等感、不平)を殺傷力を有する銃刀を手にすることで代償行動として自信を取り戻そうとするものである。即ち現実逃避、幼児性の傾向が強い。金持ち老人の日本刀マニアは、自分で振り回せもしない国宝をタンスに仕舞い続ける。死後はそのような執着のない息子家族によって古道具屋に二束三文で叩き売られる。貧乏な欲求不満マニアは安い刀や模造刀を振り回し世が世ならば…と考える。勿論、世が世でもへたれはいつどこででもへたれであり即効殺されるだけである。

銃は設計ができて、フライス等々の金属加工工具が自由に使えれば単発の中折れ銃位は製作できるだろう。しかし弾は作れない。仮に弾頭と薬莢と火薬と雷管と、リローディング用品一式とデータが有れば話は別である。

ナイフ シースナイフは差が出にくいからフォールディングナイフの場合の話として、総合的に見てベンチメイドが一番と思う。オールドスタイルのものなら、ケースクラッシクとかウィンチェスターの限定モデルを造ったブルーグラスが一番。他にはスパイダルコにOEMで供給しているメーカーは品質、コストの両面で優れていると判断しても良いと思う。最近のコロンビアリバーの製品を見ると台湾の製造メーカーもかなり技術が上がってきている。

本来は、手作りならすべての製品を確実に見ているはずだから、不良品はすべて取り去って、高品質な物だけが出荷されてるはず。が、実際に出まわってるものを見ると、かなり酷いものまで流通している。数打ちの物になると分業になるためこの傾向が一層強くなるし、コストを押さえられてしまうので、どうしても粗製濫造になり易い。このあたりに原因があるのだろう。


ダイビングナイフ 万能の理想の鋼というものは存在せず、AをとればBを捨てざるを得ない。硬くなくてもいいのならば、錆びない性能が得られる。ダイバーズナイフは大体その線で作られている。しかしセラミックナイフはサビないが命をかける海底で折れたら大変である。又、なくすとほぼ拾うことは不可能なため、安いことも性能として重視される。安い割に手になじむものを何本か買うのがいい。

ダイビングナイフにも毎回洗うとしても若干サビるのがある。しかし海女や海賊や水軍が炭素鋼を使用していたのを忘れてはいけない。ナロータングタイプは塩分がなかごに入ってサビが出るがテクナやそれを大きくしたストライダー、ユナイトのブラックシリーズは海水で使った後、水洗し更に1日くらい水の中につけて充分塩分を抜いて拭いてから油を塗っとけばサビは出ない。包丁も魚や肉をさばいている。血液は海水と同じ塩分である。


日本刀 日本に古来から伝わる刀剣は深遠な精神文化を内包し、武士が命を託す武器として大切に扱われてきた。日本刀は世界に冠する美術工芸品として魅力を放つ。

和式刃物 メリットは不必要な威圧感を周囲に与えない、デメリットは銹びることである。使いやすさは個々のデザインで決まってくるから一括りでは言えないし、切れ味はきちんと研げばどの刃物も切れる。ただ軟鋼を重ねてあると砥ぎやすいので通常の和式刃物は砥ぎやすい=切れ味が良いという感覚がある。割合重要なことだが木の鞘は一般人にもなじみがあるので、山とかで腰に付けていても違和感なく受け取られるが、同じ物でも革シースだと危ない奴と見られる可能性がかなり高くなる。薮の中で鎌や鉈を振り回していても「大変そうだな」と思われるくらいだが、ブッシュナイフやボウイナイフを振り回していたら退くだろう。

ベトナムZIPPO ベトナムジッポは50%がフェイク。フェイクと言っても良心的な物からとんでもない物まである。ベトナム戦争当時の#200番を安く仕入れて彫刻を入れたもの、現行のZIPPOに彫刻を入れたもの、ライター自体がフェイク。実害の如何に関わらず虚偽表示で販売することは許されないが、一番上ので安いならばそれほど悪くはない。そもそもベトナムZIPPOはZIPPO社のオフィシャルではないので、本物か偽物かの区別がつきにくい。従って、50年代後半〜70年代前半の本物のZIPPOを使用した物であれば、余りにも高価でない限り、値段相応の価値と思ってもいいかもしれない。


技術 自然に人為を加えて人間の生活に役立てるようにする手段。 また、そのために開発された科学を実際に応用する手段。科学技術。

規格 工業製品などの品質・大きさ・形状などについて定められた標準。

馬力 エンジンのパワーを表す時などに使う。この単位が発明された当初は、1馬力=平均的な馬一頭が出すことの出来る力であったが、現代の馬は品種改良やトレーニング法が発達しているので、本気を出せば4馬力も出すことが出来るほどの力持ちなのだ。

エンジン ディーゼル機関車には2つのタイプがある。(A)ディーゼルエンジンを軽油で動かす→車輪を回す。(B)ディーゼルエンジンを軽油で動かす→発電器で発電する→モーターを回す→車輪を回す。(B)は途中で摩擦で失われたり、熱に変わったりして失われるエネルギーが大きくなり、効率が悪い。しかしメンテのしやすさは別である。(A)はトルクコンバータが必須だが、(B)はインバータなんかの電子制御で機械系が省略できる。モーターの方がトルクのコントロールは楽である。

ディーゼルエンジンと電気モーターの特性を考えると良くわかる。デーゼルエンジンは回転数によって効率やトルクが大きく変化する。電気モーターは回転数によって効率やトルクがあまり変化しない。(B)はエンジンを最大効率で運転し、それによって発電した電気を使って発進から定格速度まで幅広いトルク特性を持ったモーターで車輪を駆動する。それによって高い効率を得ることができる。電気の回路に少量のバッテリーを導入することでもっと高い効率が出る。エンジンと電気モーターのいいとこ取りです。これをハイブリッドカーと呼ぶ。


水素 水素は取り扱いを誤ると危険ですが適切に取り扱えば危険ではない。その要点は空気と一定割合で混ぜないこと、点火源を近づけないこと又は一定以上に加熱しないことである。この2点を満たした時に可燃性ガスは凶器と化す。水素ガスが可燃性ガスの中で突出して危険な物とは言えない。例えば燃焼範囲(燃焼可能な空気との混合割合)は水素=4〜75%、アセチレン=2.5〜81%、LPガス=2.1〜9.5%、都市ガス=5%〜40%、ガソリン蒸気=1.4〜7.6%である。燃焼可能な範囲は広いので危険な印象を受けるが、ガス漏れの場合に危険なのは最低燃焼範囲の低いものである。ガスが漏れ始めるとその濃度はだんだん上昇する。

もう一つの発火条件の点火源が付近に有ると、ガス濃度が最低範囲に達した時に発火する。もう一つ危険性の差を生む条件が有る。それはガスの滞留のしやすさである。例えばLPガスやガソリン蒸気は空気より重く一箇所に滞留し易い性質を持つ。水素ガスは一番軽いので屋外で漏れた場合は急速に上昇し大気に拡散してしまう。つまり屋外で運用すれば他のガスよりむしろ安全である。


商業写真 商業写真の分野にもクオリティが求められてはいるが、悪く言ってしまえばただイタズラに消費されていくだけのジャンルなのでカタログやチラシのブツ撮りなどは、デジカメだと短時間で処理できてとても良い。いずれ銀塩の世界も「匠の技」なんて呼ばれるようになっていくかもしれない。一方では写真創成期時代の鶏卵印画紙には味わいがあって復刻している人もいるようではあるが。

今のデジカメはスゴイ。出始めのころはトルに足らんと思われていたが、400万画素だの600万画素や…プロ連中も浮き足だってきてるというか、移行しつつあるようである。価格もお手頃になってきた。一般に商業写真では大半が最終工程で「印刷」に突き当たるわけで、一連のラボ現→分解→製版といった従来の(バタくさい?)流れがDTPやらCTPなどの出現によってエンドの部分が、かなりデジタライズされてきた。残るはフロントの「写す側」だけになった。

カメラと銀塩プリントという【モノ】マニアから写真という【イメージ情報】ユーザーに大移行が始まっている。報道カメラマンは、ニコンの一眼レフデジカメに加えてキヤノンD1発売でデジカメ化に結論というか銀塩派にとどめがさされるだろう。これからはメインがデジカメ、抑えが銀塩というのが常識だ。中高年のデジカメ難民とレンズ付きフィルムの利便性はまだまだ残存するだろうが、DPE市場全体が急速に縮小することは確かだろう。


デジカメ デジカメは初心者の方には普及機といわれる200万画素タイプがお勧め。それ以上は、人間の目では判別できない世界の話。200万画素でA4用紙に印刷して十分な画質になる。プリンタはそれ以上の印刷できない。写真屋さんでDPEに出しても300万画素の写真と並べて「言われてみればここが少し粗い気がする」といったレベルである。

OLYMPUSはレンズが良いから画質が同じ画素数のデジカメに比べて一枚上。写りもシャープであり、何より値段が手頃。尤も普及期機4〜5万円だが。形もコンパクトカメラからふつうのカメラと同じ、と選択の幅がある。

藤原紀香がCMしているフジフィルムのデジカメは画素数こそ他メーカーの倍だがその実、実装しているCCDの画素数は同じ。画素の配列が違うから理論上は倍の画素と同じ、ということで600万画素とか400万画素とうたっている。カメラの形は正方形か長方形。持ち運びにはじゃまになりにくい。実際の写りは、色合いは自然だが、どこかピントがぼけた感じになるのは何年も前から解消されていない。

sonyは最近頑張っている。やはり携帯しやすい形のものが人気である。気軽に首からぶら下げられる。数年前は2枚撮影するとバッテリー切れということがよくあったが最近はスタミナで売っている。実際、レンズ回転式以外のカメラはバッテリーは長持ちのようである。写りはやや青みが強くて人の肌を表現するのは難しいかもしれない。それ以外は実に標準的。

CANONは中田選手がイメージキャラクターで小さくて大ヒットした。普段気軽に持ち歩くには本当にちょうど良い大きさである。ただ初代機からバッテリーの持ちが良くない。しかも充電式だからコンビニに駆け込んで単三電池をというわけにはいかない。写りはさすがCanon。コントラストが強めですが良い写りと思う。

銀塩では売れているミノルタもデジカメ界では今ひとつぱっとしない。ミノルタのデジカメを使ったのは随分前で、レンズと本体が離れる、という変わり種だった。その当時の写りは「いまみっつ」くらいだった。私は、必ずメーカーのホームページなどでサンプル写真を見て、お店でサンプル写真を見て、その上で自分の目的にあったものか、乾電池が使えるか、実際に構えて、シャッターを押して使い勝手を確認する。さらに一週間考えて買う。後は自分の腕次第。デジカメはその場で確認して削除したり取り直したりできるから便利である。


DM 封筒の表のところに朱書きでデッカク受け取り拒否と書いてもう一度ポストに投函。そうすれば差出人に返送してくれる。

ペット いやなことがあってもしぐさや顔を見ていると心がなごむ。もうかわいくてかわいくてたまらない。寂しい時はなぐさめてくれるし、留守番してくれる。今の私には、いなくなるなんて考えられない存在である。1度飼うと決めて飼った動物は最後まで飼ってほしい。近所の猫の鳴き声で夜中に起こされたことがある。犬ならまだしも猫、はじめはびっくりした。かなり不気味。飼い主がしつけてどうにかなるのだろうか。

ロボットペット かわいい。お金もかからないし、トイレなどの後始末もいらないが、価格がかわいくない。いろんな事情で飼いたくても飼えない人がたくさんいるので、ロボペットもいいと思う。エサがいらない、別れがこないなど、ロボットペットも良いが、命の大切さを学ぶという本来の目的を忘れないようにしたい。お掃除やお料理など家事ロボットがあればいい。

Hotel
稼働率を毎日限りなく100%に近づけること、つまり客室総数100室のホテルなら毎日100室を売り切ることが、ホテル客室販売の鉄則である。しかし80%しか売らないというホテルもある。お得意様、上顧客様、社会的地位の高い方が突然やってきても、すぐにお部屋がご用意できるように、との配慮からである。いつでも使えるからいつも使う。いつも使っていただけるお客様はホテルにとっては大変にありがたい。ところが365日ずっと空きっぱなしかもしれない、というリスクも同時に背負うことになる。売れないかもしれない20%の売り上げは、必然的に売る80%の部屋代に分散されることになる。これは高級ホテルの客室料金が高額な一因でもある。

宿泊料金 宿泊料金はホテルによって表示がまちまちである。まず、チェックしなければならないのは1室料金なのか、1人料金なのか。ホテルはもともと、料金システムは1室単位で組まれる。厳密にいうと、そこにベッドがいくつあるかということもあるが、1室でいくら、が基本である。ところが日本人には、旅館の料金システムの方が馴染み易く、こちらは1人いくらが基本になる。ホテルは、寝るところ、つまりベッドを提供してついでに、食事も用意したところから発生している。一方、旅館はどちらかというと、食ありきで宿泊もできるという感じがする。

旅館の料金システムに慣れている日本人にとって、1室いくらのホテルの価格設定は、どうも分かりにくいようである。いくら説明しても「で、一人いくらになるのか」と必ず聞かれる。シェアShareには山分け、分配、共同、分担という意味があるが、複数で一部屋に泊まる場合は部屋をシェアする、という考えになる。ところが、どうも日本人の根っこの考えの中には分ける、というのはDivide、つまり裂く、割る、分離する、区別するという意味に理解されがちである。その結果、1人いくらの料金の方が馴染み易く、ホテルにとっては売りやすいということになり、宿泊プランでは、1人いくらという価格設定が多くなる。

他にはサービス料と税金は、含まれているのか、別になっているのか。ホテルのサービス料は分かりにくい。しかし同じ取られるならば、チップよりサービス料の方が面倒くさくなくて楽、という見解もある。食事代は、入っているのか、入ってないのか。食事は1食なのか、2食なのか。ルームサービスなのか、レストランに出向くのか。飲み物は入っているのか、別料金なのか。同じ宿泊プランなのに、曜日によって料金が違ったり、連泊すると2泊目が安くなったり。多々ある宿泊プランの特典は帯に短したすきに長しで、どれが一番得なのか、さっぱり分からなかったりで、ここにチップとなるともう面倒になる。1室2名利用、一人9,500円 サービス料込み、税金別というプランがあったとする。この場合、一人が払う金額は9,500円×1.05(消費税)=9,975円になる。一部屋料金は9,975円×2人=19,950円、又は9,500円×2人×1.05(消費税)=19,950円になる。


客室予約コントローラー 直接電話をしたら満室と断られたのに別のルートで予約が取れることがある。これはホテル側に「今日はこの辺でやめておこう」という姿勢があるためである。ホテル側は正直にお客様に「そんな訳でして、空いてる部屋はありますが、その日はお泊めできません」とは言わないので、「満室」となる。ところが、周辺事情や状況の変化によって「1室くらい、とっても構わない」ということも起こり得る。これを決めるのが、客室予約コントローラーである。「頼む1室だけでも何とかして」とお得意様から頼まれたセールスマンが満室の日などは、何人も入れ替わり立ち代り、客室予約コントローラーにゴマすり合戦をはじめる。コントローラーは社内の力関係にも気を配らなくてはならない。

ホテルにとって一番いいのはシングルルームはシングルとして、ツインルームはツインとして、スイートルームはスイートとして毎日、全部、きっちりと売れることだが、そう上手くはいかない。シングル希望の予約がやたら多い日がもある。シングルは満室でツイン、スイートはガラガラ。「こればっかりは、どうしようもないか、明日にかけよっと」とノンビリしたことを言っては経営者失格である。

今日ツインが20室売れ残ったからといって、その分を明日販売するという訳にはいかない。そこでシングル料金でツインルームを売ることになる。勿論、ツインとして売れるに越したことはないので、この判断を、何時つけるのか、が重要になる。社内事情はもとより、周辺事情、過去のデータ等を判断材料に刻一刻と変化していく状況の中で稼働率を毎日限りなく100%に近づけることが客室コントローラーの重要な仕事になる。稼働率が一体何%だったのかは当日が終わるまで分からない。


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